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葛原岡神社ついて 御由緒や歴史を紹介

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御由緒

葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)は後醍醐(ごだいご)天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基(ひのとしもと)卿をお祀りする神社です。

俊基卿は幼い頃から学問の道に優れ、大変有能な人物であったので、後醍醐天皇より見出されて、優秀な側近として活躍されました。

当時、鎌倉幕府は悪政を続けており、後醍醐天皇は政治を正しい姿へと導くため、幕府を打倒する決意を固められ、計画を練られました。
俊基卿も、後醍醐天皇の最も信頼の厚い側近のひとりとして計画に加わり、重要な役割を果たしておりました。

ところが、正中元(1324)年、幕府打倒の計画は事前に幕府に察知され、俊基卿は捕らわれの身となって鎌倉へと送られてしまいました。
しかし、俊基卿の身を心配された後醍醐天皇が鎌倉へ万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)卿を派遣、とりなしに努めたので、翌年には京都へと戻ることが出来ました。
その後も、後醍醐天皇は屈せず鎌倉倒幕の計画を進められ、俊基卿も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしておりましたが、元弘元(1331)年、またも計画が幕府に知られ、俊基卿は天皇をかばうため、再び捕らわれの身となりました。

鎌倉へ送られた俊基卿は計画の中心人物として、翌元弘二(1332)年六月三日、幕府の手によって葛原岡にて悲劇のご最期を迎えられました。
その間、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の元弘三(1333)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。

俊基卿自身は、その目で『建武の中興』を見ることなく、悲劇のご最期を迎えられましたが、明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。

以来、鎌倉由比ヶ浜の総鎮守として、また「建武の中興」への道を開かれたことから「開運の神様」、また文章博士として優れた能力発揮されたことから「学問の神様」として、今日でも広く全国各地より篤く崇敬されております。

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御本殿

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関係図(画像クリックで拡大表示)



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古来一句 無生無死 万里雲尽 長江水清

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俊基卿の辞世

辞世とは、人が死に際して和歌、漢詩等に思いをこめて詠み残すものです。

『太平記』によれば、俊基卿は最期を迎えるにあたり、京都より俊基卿の夫人の使いとして鎌倉まで来ていた、従者の後藤助光に辞世を託した、という場面が描かれております。
京都から鎌倉へ向かわれるとき、天皇の御身を守る為、我が身を犠牲にする覚悟を決めておられた俊基卿の辞世は、左図のようなものでした。

意訳

『古来より「死もなく生もない」という言葉がある。
自分も精一杯頑張ったが、残念ながら、万里の果てに雲が尽きる様に、今は万策尽き果て、この様な結末となったが、理想の為に力尽きたのだから、生や死はもはや問題ではなく、少しの恨みもない。
今は、長江の水が清らかな如く、自分の心は一点のけがれもなく、さわやかである。』

従者の後藤助光は涙ながらに俊基卿を葬り、再び京都へ上って遺骨と遺髪、辞世と形見の手紙を夫人に届けました。その後、夫人は尼となり、助光もまた高野山に入って俊基卿の菩提を弔らわれた、といいます。